2013年12月26日木曜日

老官山医簡 (人民網 12月18日)の粗訳

「老官山漢墓より920枚の医簡が出土 --- 価値は馬王堆をはるかに越える」という記事(人民網 2013年12月18日)の翻訳です。 
http://culture.people.com.cn/n/2013/1218/c172318-23876107.html?prolongation=1 

 かなり粗い訳ですが,ご容赦ください。

表題「老官山漢墓より920枚の医簡が出土 --- 価値は馬王堆をはるかに越える」

◎成都天回鎮の老官山漢墓より出土した大量の前漢簡牘とはいったいどのような内容なのか?12月17日,簡牘解読プロジェクトの責任者である荊州文保中心研究員の武家璧が一部の答えを公表した。扁鵲は医方の祖師で,脈診でその名を知られているが,今回出土した『五色脈診』などの医書は,扁鵲学派の経典に違いないと,彼は考える。
 成都中医薬大学歴史文献研究員、博士課程教員である和中浚は,出土した経穴漆人形や薬方から,この医簡の医学史上の価値は馬王堆医書をはるかに超えることを発見した。
 9部の医書は,扁鵲が伝説ではないことを証明するかもしれない。

◎3号墓より出土した920枚のうち736枚は,9部の人体医学書に分類できる。『五色脈診』を除いて,すべて書名はないが,初歩的な整理を経て暫定的に『敝昔医論』『脉死候』『六十病方』『尺簡』『病源』『経脈書』『諸病症候』『脈数』等と名付けられた。

◎扁鵲医学理論が証明できることを希望する
 武家璧:出土した医簡に『敝昔医論』があるが,“敝昔”とは古代においては“扁鵲”の通假字である。よって脈診法の創始者扁鵲を指す可能性が非常に大きい。
 和中浚:扁鵲は医学史上,論争のある人物で,単なる伝説上の人物であるという説もある。なぜなら,扁鵲本人が残した文献がほとんどないからである。もしこれらの医簡が,扁鵲の医学理論であると証明できれば,その意義は非常に大きい。

◎9部の人体医書はそれぞれ特徴がある
  出土した9部の人体医書はそれぞれ特徴がある。たとえば『敝昔医论』は五色脉を述べ,五色脉と臓腑、疾病との関係を論じている。『脉死侯』は脉象と疾病および死亡との関係を述べている。『六十病方』には薬方が60条あり,病名は内科、外科、婦人科、皮膚科、五官科、傷科等の疾病を含む。『病源』は病理学に触れ,『諸病症候』は全部で268枚の竹简に及び,関連する薬方や医病理論理の内容は相当多く,経脈と病症部分を含んでいる。

◎中医方剤は八味に及ぶ
 和中浚:これまでに,馬王堆、張家山漢墓からも医学文献が出土したが,成都天回鎮老官山から出土した医簡は,医学史上数量が最大で,最も集中しており,医学との関係が最も密接である。920枚の竹簡の字数は,馬王堆医書の二万余字と大体同じである。馬王堆医書の内容には多くの原始的、巫術的なものがあり,医方も单方が主であり,経験的な部分が大きい。それに対して,成都天回鎮老官山から出土した医簡は,早期の馬王堆医書と中国最初の医学典籍『内経』との間に位置するもので,9部の人体医書はみな医学と関係があり,病機、症候治療、鍼灸、脉象等に及び,学術価値はかなり高い。
 また,成都天回鎮老官山医簡の薬方も馬王堆医書に比べより成熟している。それぞれの薬方の薬味は四五味から七八味であり,馬王堆医書の一二味の薬と比べて,中医方剤の特徴を持つというだけでなく,多くの薬は現在でも臨床で使用されている。
 武家璧:今回の医簡の医学史上の価値は,馬王堆医書よりはるかに高い。また,初めて『医馬諸書』が発見されたことは,中獣医史の空白を埋めるものである。
  
◎最も整った人体医学模型
 3号墓より,整った人体経穴漆人形が出土した。五官、肢体の刻画は正確で,白色または红色で描かれた経絡線と穴点をはっきり見ることができ,さらに「心」「肺」「腎」「盆」などの字が陰刻されている。

◎経脈鍼灸理論の起源を明らかにする
 和中浚:これは四川派中医学の由来を追究する物的証拠である。これは,1992年に綿陽双包山漢墓から出土した経脈漆人形と造形の風格が一致し,四川で早期に経脈学が発展していたことを証拠づける。綿陽の人形には13本の縦行経脈があり,主に手と頭で交会している。成都天回鎮老官山から出土した人形の経絡線は複雑で,交会する箇所が多く,これまで我が国で発見された最も整った経穴人体医学模型であり,墓から出土した経脈医書と対照することで,中華医学経脈鍼灸理論の起源と発展を明らかにする上で,重要な意義を持つ。
 唐光孝(綿陽市文物局副局長):綿陽から出土した経脈漆人形は,高さ28.1cm,片手と両脚に欠損がある。肉眼で経絡線を見ることができるが,文字はない。成都天回鎮老官山から出土した経穴漆人形はより精緻で整ったものである。
 綿陽で出土した当時,経脈漆人形は水を含んだ状態で,10余年来ずっと水中で保護をしてきた。今年の夏,経脈漆人形は“秘密”裏に綿陽から成都へ運ばれ,現在は成都文物考古研究所の実験室にあり,今回発見された成都経穴漆人形とともに,脱水保護処理が行なわれている。綿陽経脈漆人形が出土した墓からは,半两銭だけが発見され,五銖銭が発見されないことから,その年代は漢武帝元狩五年より前と確定できる。成都経穴漆人形が出土した漢墓からも,前漢の半两銭が発見されており,漢景帝から漢武帝の時代と推測できる。2つの漆人形の年代は近く,風格は一致する。さらなる対比研究を行なうことになる。

◎医簡に巫術がない
 馬王堆医書は天回鎮医簡より早期のもので,巫と医が分かれていない。天回鎮医簡には巫術は発見されておらず,中医学がすでに独立発展の道を歩み始めたことを示している。天回鎮医簡『六十病方』は馬王堆『五十二病方』と同類だが,病名や治療法は異なる。これは,成都には独立伝播した医学流派が存在し,中国医学に対して重要な貢献をしたことを表している。

◎少なからぬ薬物が臨床応用されている
 枳実、防風、烏喙……これは天回鎮医簡から出土した医方中のひとつである。和中浚は「出土した医方中の薬の非常に多くは,現在でも臨床で運用されているもので,また多くは主薬である。医簡に記録されているある薬方は,理論レベルも高く,馬王堆の薬方が初級段階であるのをはるかに超えている。中医薬方は時方と精方に分けることができるが,天回鎮医簡は精方の特徴を有しており,医聖張仲景薬方の起源ということができる。」と述べる。

◎四川の薬材は二千年前にすでに使用されていた
 『六十病方』中には「蜀椒」という四川中薬の名が頻繁に出現する,川防風、厚朴等もみな四川の特色のある薬材である。和中浚は「馬王堆から出土した『五十二病方』にも,処方箋に蜀椒、川防風などの四川中薬の名があった。今回の医簡にいくつかの四川中薬が出現したことで,早くも前漢初めに四川中薬がすでに広く薬として治療に用いられていたことを,さらに裏付けることになった。」と述べる。

◎二千年前にすでに療程(治療クール)にもとづき治療を施す
 出土した薬方中には,最古の「君臣佐使」処方が発見され,中医学では2000余年前にすでに,処方時に各味薬の関係を按排することが求められたことが明らかになった。さらに同一の病症に対して3つの薬方があり,三期の療程で使用された。「三日益中,八日善」,最後に「病已」とある。

◎赤外線スキャンで医簡を“破訳”
 竹簡は沖積した泥の中に埋藏されていた。文物保護スタッフが泥を除いた後,シュウ酸で処理を行なうと,墨跡がはっきりと出現し,竹簡は墨で書写されたことが明らかとなった。しかし,竹簡の内容は赤外線スキャンののちやっと詳細に読むことができた。

◎人形の字体
 経穴漆人形には「心」「肺」「腎」「盆」などの線刻の小字が陰刻されていて,見たところでは,現在の字体と大きくは異ならない。漢代の字体はすでに現在と似ていたのか?成都市考古隊発掘リーダーの謝涛は「人形の字体は実は,篆書から隷書に移行する過程の字体で,たとえば「心」には篆書の風格があり,「肺」「胃」等は隷書に近い。」という。専門家の解読により,示しているのは人体内臓器官であると確認された。

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